盛岩寺過去帳による死亡者の推移と動向
1、調査経緯と目的 盛岩寺は慶長6年(1601)開山以来、2度の火災に遭うも、奇しくも過去帳だけは灰燼に帰することなく現在まで保存されている。 特に当地域内に盛岩寺があるだけのいわゆる1村1ヵ寺という形態であることもあり、本稿は江戸時代の盛岩寺過去帳を資料とし て死亡者の動向や大量死亡の実態に注目し、具体的な資料として分析、解明を試みたものであるが、その調査の緒を発表するに とどめたものである。 課題として、江戸時代中期から末期そして明治5年までの2世紀にわたる漁村地域社会における死亡構造(漁船の遭難・疫病・ 飢饉・津波等災害)を調査することにある。 |
2、当山の過去帳について 江戸時代の盛岩寺過去帳は縦30.3p 幅20.5p 厚さ2p 頁数180 表紙は柿渋塗り。上巻中巻下巻の3冊で構成されている。 上巻は1日から10日まで、中巻は11日から20日まで、下巻は21日から30日ま で、それぞれ死亡年月に関係なく命日(死亡日)ご とに記入されている。 さらに一冊は縦32.5p 幅22.0p 厚さ 0.8p 頁数62 表紙は亀甲模様。安政5年(1858)正月20世泰翁魯山代新添となっている。 安政5年から明治5年(1872)まで、死亡年月日順に記入されている。この記帳の仕方は現在まで続いている。 過去帳の記帳は概ね寛文時代前後から始まっている。因みに、最古の記入年代は慶安3年(1650年) 8月8日となっている。 上巻2295霊 中巻2342霊 下巻2350霊 魯山代別冊861霊 弘化 4年船遭難別冊69人 合計7.917霊 |
3、死亡者記帳の情報からみた特徴 過去帳の死亡者記帳に基づいて、慶安時代から明治5年まで、220年間約2世紀にわたる死亡者の情報を見ることが出来る。 1)過去帳に記された死亡者の居住地、地区別が判然としている。 2)過去帳に記された死亡者の続柄、関係等が判然としている。 3)過去帳に記された死亡者の苗字や屋号は、文化文政になって確認することができる。 4)過去帳に記された死亡者が他所から来てたとき、その出身地が記されている。または、死亡者の身元引き受け人が記されている。 5)過去帳に記された当地出身の死亡者が他所にて死亡したときの居住地が記されている。または、葬儀を執行した旦那寺が記され ている。 |
4、死亡者数の推移からみた特徴 1)漁船の遭難について 220年間における死亡者数の推移からみて、興味深い特徴が読みとれる。「竜宮世界に往生」「五大力にて没す」これらは漁村特有の 海難事故である。 海難事故は気象の激変による自然災害に遭遇して発生している。特に三陸は晩秋から冬にかけて季節風が吹き荒れる時期が多い。 下表を見ると11月〜12月の遭難が多い。また、 初秋から三陸沿岸を通過する台風は多くあるが、夏台風は不規則な進路をとって稀にで はあるが襲来する。そのことを6月・7月の鰹船の遭難が如実に表している。 江戸中期には大坂、江戸を中心とする全国経済と各地の藩経済の経済システムが形成され、各地の特産物の流通システム(俵物集 荷組織)が確立されていた。さらに海産物 を集荷する商人は漁民に融資を行い現物(漁獲物)で返済を受け取るようになった。当地もそ の流通システムに組み込まれていたと推察される。 下表で唐丹とあるのは本郷地区であり、伊達藩浜街道の番所が設置され、唐丹の経済文化の中心となっていた。漁獲物は煎海鼠や 干鮑は長崎俵物として、干物・塩物・魚粕 ・魚油・節物などにして、綾里(大船渡市)や大船渡に集荷され、他領出俵御定をだし て関東 銚子などへ出荷されていた。このことは、大西家古文書(大船渡市・大船渡大西 家文書刊行会編・上下巻)にも記されている。 *手漕ぎ船といっても一艘当たり10人前後の人が乗り組んでいる。地方によって遭難のことを例えば弘化4年の件だと「69人泣かせ」な どといっているところもある。一家の大黒柱が働き手が亡くなると、その漁村は悲しみが漂うことは昔も今も変わりない。 |
〇過去帳にある漁船の遭難を記す。月日は旧暦
漁船遭難 (*印は過去帳に記入されていないが、唐丹小史資料編によるもの)
*寛永3年(1326) | 6月 | 大風により仙台、南部領浦々被害甚大なり。気仙9艘32人・宮古浦26艘340人流亡 |
*正保2年(1645) | 3月 | 暴風雪により赤魚船、唐丹1艘・越喜来2艘・両石2 艘・平田2艘・83名流亡 |
*寛文10年(1670) | 7月 | 唐丹村で沖漁船1艘 11名流亡 |
天和 2年(1682) | 12月25日 | 花露辺、唐丹 4船 53人 |
宝永 6年(1709) | 11月20日 | 唐丹 市兵衛船 12人 |
*享保11年(1726) | 2月 | 大風により唐丹村漁船4艘49人流亡 |
享保14年(1729) | 2月10日 | 唐丹 権四郎船、唐丹 与伝治船 12人 |
*宝暦 5年(1755) | 6月 | 霖雨により唐丹村漁船1艘 13人 |
天明 元年(1781) | 12月23日 | 唐丹 9人 (船主不明) |
寛政 5年(1793) | 11月29日 | 4人 船名なし |
寛政11年(1799) | 9月15日 | 花露辺 徳治郎船10人 平田、広田、安戸各浦からの乗組員名もあり |
享和 2年(1802) | 1月 8日 | 唐丹浦ニテ死亡御用水主 南部大畑八兵衛31歳 當寺二テ葬送 |
*文化10 年(1813) | 7月12日 | 唐丹村時化により鰹船の被害多し |
文化13年(1816) | 4月 6日 | 花露辺 平三郎船 4人 |
*文化13年(1816) | 8月 | 暴風にて唐丹村漁船6艘 80名流亡 |
天保 元年(1830) | 11月23日 | 唐丹 文四郎船 5人 |
天保 6年(1835) | 7月 1日 | 花露辺 源太郎船1人・大石浜川窪利四郎鰹船6人・唐丹 西村善太郎鰹船4人 |
天保 9年(1838) | 11月22日 | 唐丹 音吉、与十郎両船25人 |
天保11年(1840) | 12月22日 | 大石浜 与惣治船 5人 |
天保12年(1841) | 1月27日 | 唐丹 音吉船 3人 |
天保12年 | 11月25日 | 初吉船 3人 |
天保15年(1844) | 4月16日 | 唐丹 北ノ要吉内 松前正徳丸船中之者也 |
弘化 4年(1847) | 6月18日 | 小白浜 金太郎船 3人 〃 伝十郎船 7人 〃 善兵ェ船 11人 〃 小治郎船 11人 花露辺 源太郎船 7人 〃 長兵ェ船 10人 唐 丹 喜左ェ門船 12人 大 石 甚治郎船 7人 根 白 市之助船 1人 9艘 69人竜宮世界往生者也 *この遭難の分として過去帳が1冊別扱いされている。 |
嘉永 2年(1849) | 11月22日 | 根白 左十郎船 4人 |
嘉永 6年(1853) | 2月 6日 | 前 小次郎漁船 16人 |
嘉永 6年 | 10月29日 | 小白浜 林蔵船 4人 |
*安政 5年(1858) | 3月 4日 | 唐丹村大石与惣治船で両石の者3名溺死 |
明治 2年(1869) | 7月13日 | 唐丹 村上音ェ門鰹船13人 |
2)飢饉について 江戸時代は、全期を通じて気候的に寒冷化の時代であったといわれ、長期にわたる冷 害・干ばつ・水害などの天候不順、 火山噴火などで凶作や飢饉が続いた。特に中期以降 は冷害、干ばつなどの凶作が繰り返し、何年かおきに凶作飢饉が発生、 疫病が蔓延して、 死亡者が急増するという事態が幾度となく繰り返されていた。 江戸三大飢饉といわれる享保の飢饉「享保17年(1732)」・天明の飢饉「天明2年 (1782)から天明7年(1787)」・天保の 飢饉「天保4年(1833)から天保10年(1839)」 仙台藩では、宝暦、天明、天保の飢饉を仙台藩の三大飢饉と呼ばれていた。専門家はこれを東北の三大飢饉と定義している。 宝暦の飢饉は宝暦5年(1755)宝暦7年までの3ケ年間、東北地方一帯をおそった凶作の被害は甚大なるものがあった。特に 宝暦5年は、最も惨状をきわめた。この年は長 雨が降り続き冷夏となり、ついに大凶作となった。 この時代の気象状況は不安定な異常気象が続いた。特に、天明3年の信州浅間山の大爆発は仙台藩まで火山灰が降り、 未曾有の大凶作を招いた、米の収穫期には1割りにも未たず、食糧の欠乏と疫病が重なり、仙台藩だけでも30万人の餓死者を 出したと云われている。 更に、封鎖経済の時代で穀止をかけるなど、隣藩との物資の交流も円滑に行われず、米価の高騰もあいまって、いっそう惨状 を極めた。 天保時代に入ると、天明飢饉の経験を踏まえ、さまざまな救済仕法を考え、御救小屋を設け粥を与え、救荒貯穀の制度を設け 餓死者を防ごうとしたが、それほど成果が上がらず、各地で度々米騒動が続いたのであった。 飢饉は、地方によっては「飢渇(けかち)」とも言われ、古くから恐れられてきた。そもそも飢饉は、水害や干魃冷害などによっ て凶作となり引き起こされるが、凶作の年だからといって餓死者が必ず出るということでもなかった。 農作物の作況状況を示す目安としては、平年作と比べて、四分の一減程度は…不作 二分の一減程度は…凶作 四分の三 減程度は…大凶作。 それ以上のときは…飢饉とされていた。 沿岸における飢饉の対応はどうだろうか。漁村は通常に魚や、海藻などの漁獲物があると思われがちだが、陸の不作は海の 不作とリンクしていることは事実としてある。 沿岸特有の北東風ヤマセの影響があり、作物は大打撃を受け凶作となる。八戸藩では、天明の飢饉は作物がとれず、領内 で数万人が餓死したといわれている。 |
盛岩寺過去帳の宝暦・天明・天保の死者数
宝暦4年 (1754) | 宝暦5年(1755) | 宝暦6年(1756) | 宝暦7年(1757) | 宝暦8(1758) | 宝暦9年(1759) | 宝暦10年(1760) |
58人 | 25人 | 90人 | 15人 | 12人 | 10人 | 12人 |
天明2年(1782) | 天明3年(1783) | 天明4年(1784) | 天明5年(1785) | 天明6年(1786) | 天明7年(1787) | 天明8年(1787) |
9人 | 10人 | 37人 | 20人 | 7人 | 28人 | 36人 |
天保4年(1833) | 天保5年(1834) | 天保6年(1835) | 天保7年(1836) | 天保8年(1837) | 天保9年(1838) | 天保10年(1839) |
47人 | 57人 | 110人 | 101人 | 200人 | 135人 | 60人 |
天保11年(1840) | 天保12年(1841) | 天保13年(1842) | ||||
31人 | 21人 | 51人 |
3)疫病について 江戸時代の疫病には、大流行した赤痢、麻疹(当時は大病であった)がある。さらに文政5年(1822)に長崎に入ったコレラがたちまち 大阪まで広がり、大阪での死者は日に300 〜400人だったと言われ、江戸では50日間に4万人以上が死んだと記録されている。 大船渡市のあるお寺では、日に20人以上の葬儀をしていたという言い伝えが残っている。 過去帳の中で、とりわけ寛政12年(1800)12月から享和元年(1801)5月に頃まで子供の死亡者数が急激に増加している。 寛政12年12月17人 享和元年1月49人・2月28人・3月16人・4月3人・5月20人・6月2人 ・7月2人 6ヶ月の短期間で138名が亡くなって いる。 特に過去帳年代別に死者が突出しているのは下記のものである。 享保元年(1716)21人 享保2年 240人 享保3年 66人 享保4年 6人 明治3年(1870)192名死亡 1月5人・2月8人・3月8人・4月14人・5月8人 6月5人・7月21人・8月18人・9月54人・10月28人・11月9人・12月14人 |
以上が、慶安3年から明治5年までの盛岩寺過去帳を資料として、死亡者の動向や大量死亡の実態に注目し分析したものの、調査の時
間は限られていたため、入り口だけの検証でお茶を濁したようなものになってしまった。向後もっと時間をかけて、分析調査をして皆様に
ご報告申し上げたい。
(明治29年・昭和8年三陸大津波の過去帳はこちらへ)
平成21年 盛岩寺住職 識