津波と大火の災害記録


              

              中央 昭和8年の記念碑 右 明治29年の記念碑

              津波の常襲地帯


 三陸沿岸は昔から津波の常襲地帯であり、更に海岸はリアス 式で入り江が入り込んでいるため被害が大きい。

 当地の地形は山が海に急傾斜していて平地がほとんどなく、  民家は海岸に折り重なるようにして建っているため、被害は壊滅 的だった。

 現在は海岸に防潮堤が完成している。また海底に津波の情報 システムを埋設していて、住民に一速く広報できるようになっている。 

                           



昭和8年過去帳・明治29年過去帳    
            明治29年の被災記録

 明治29年(1896)6月15日午後8時頃津波第1波襲来。津波の高さ は16,7mであったという。
 当村の人口2,535人の内、死亡1,649人(當山所有掛け軸三幅に死亡者名が記されている。12年後の13回忌につくられたもの)
*1,684人 ・戸数446戸の内、357戸流失、残ったのは89戸、重軽傷者75名
(山奈宗真調査)
盛岩寺過去帳記入分1,622霊 

             昭和8年の被災記録


昭和8年(1933)3月3日午前2時30分頃大激震後30分位経過して 第1波襲来。津波の高さは11,8mと記録されている。

総人口3,380人 死亡359人(行方不明224人)戸数549戸の内263戸 流失。

 特に本郷地区の被害は、戸数101戸の内100戸流失、人口620人 の内326人死亡。

盛岩寺過去帳記入分356霊  

参考資料 盛岩寺寺報・柴孝也記『明治昭和三陸津波の記録』

   詳しい津浪の被災記録はここをクリック

 

             大正2年の唐丹村大火


  沿岸の3月〜4月は、山も里も一年の内でもっとも乾き切っている 時期である。

 大正2年(1913)4月1日野火から始まった山火事は、村民の消 火活動で一応延焼を防ぎ止めた。
 
  しかし、夜半から強風が吹き出したため、残り火が火勢をもりかえ し、風下へ風下へと延焼していった。

 夜明け方火炎が渦巻いている山々を発見した人々は驚くとともに、 手の施す術もなく、ただ風下の地区へ警戒するよう告げるだけであ った。
 
 村の中心地である小白浜地区に延焼。高台にあった盛岩寺の本 堂の屋根は、萱屋根であったためいち早く延焼。

 強風にあおられた萱屋根は下の民家の密集地に飛んで行き一瞬 にして火の海になったという。
 
 この時住職は法事で隣村にいっていたが、過去帳と涅槃図は辛う じて畑に穴を掘って埋めた。それ以外の全てが灰燼に帰す。

小白浜はすぐ前が海で避難場所というと海上より外はなく全く逃げ 場を失ってしまったのであった。

 ある者は海水に首まで浸かり、ある者は濡らした筵を被り、また船 で海上に逃げたりした。
 
この災害は、明治29年の津波から18年後に起きた大惨事であった

     村の総戸数  416戸  焼失家屋  死 者  
    小白浜地区   150戸   141戸   14名  
    本 郷 地区    75戸    70戸    0名