三陸大津波唐丹村の記録

              昭和8年3月3日 午前2時31分39秒発震
                               地震後30分ヲ経過シテ海嘯襲来 

 この記録は、被災後直ちに唐丹村小白浜小学校佐々木源次郎先生が中心となり、教職員一致協力し、被災者並びに関係諸団体より聞き取り調査したものであり、其の後 報告を兼ねてガリ版刷りで発行したものである。
 
 昭和57年8月、佐々木先生のご子息 佐々木典夫氏が津浪の50回忌を迎えるにあたり、「津浪の記録」製本刊行したものである。
 
  佐々木典夫氏は当時4歳で、海岸の教員住宅から父に背負われて高台の小学校校庭に逃げ、小雪のちらつく中寒さに震えながら夜明けを待った記憶が、今なお甦ってくると、あとがきに記しています。
       
  
「津浪の記録」をHPに掲載するにあたって、編者の佐々木典夫氏より承諾を得ております」

            目次

              1.津波を直感した人々
              2.唐丹村役場の急報 
              3.惨状偵察と海軍の救援 
              4.山林課の活動と罹災者の収容
              5.皇室の御仁慈
              6.津浪襲来と其の惨状
              7.各地区の被害一覧表
              8.湾内流失物の処置
              9.慰問品の配給
             10.死体捜索と始末
             11.救護団の活動
             12.罹災者と救療班の活動      


    津波を直感した人々

  平舘幸蔵氏は、地震後三回海岸に警戒に出て、三回目の時、東方の沖合に大音響と発光現象あり、不思議に思いてしばし海面を注視し居るに、海の遠鳴りと共に俄に減水し始めたり。

 此れを見るや直ちに津浪と直感し、半鐘を乱打して全部落に警戒せんと、折柄海岸に立てる大見楼に上がらんとせるに海の鳴り響き物凄くなりたる打ち驚き其の侭ひた走りに走り、小池善兵衛氏宅前で津浪だと絶叫し、又走り乍ら佐藤亀松氏の前で叫び、自分の家に飛び入り一家を率いて避難せり。

 附近の家々では、時ならぬ音響と海の遠鳴りに不安を抱き居りし折柄、幸蔵氏の津浪だーとの最初の一声にすわとばかりに騒然となり、右往左往に避難するに至れり。

 今生存せし人々の平舘氏に対する感謝の念の切なるもの多し。不幸、本郷は三百二十五名の多数の死者を出せしは、返すがえすも残念にて思うて涙の今新たなるあり。

 省みて本郷は、何故に斯くの如く多数の死亡者を出せしか、その原因を探るに、本郷には明治二十九年の津浪の遭遇者少なく、ために海岸に降りて警戒する者少なく、北村方面をのぞく外は大概平然として就床しあり、或は談笑しあり。
 
 津浪襲来間際に海岸の騒ぎに打ち驚き、或は海岸の家に破壊する音に驚き人々夢中に逃げ惑う者多く、常にこうした非常訓練に訓れざるため只高所高所目差し、狭隘なる箇所にのみ皆押寄せ、上り兼ね居る中にさらわれたる者多く、最も避難に適せる県道伝い走りし者の少なきは遺憾なり。

 何の因縁か此の晩ばかりは常とは異なり、余りにも消防其の他の人々は冷静なりし由なり。然し乍ら比較的多く、一家全部残りし者等の北村方面に多かりしは、避難所の良好は無論なるが、平舘幸蔵氏の功績又顕著なるものあり。

 片岸地区にては、岩沢長松氏は、地震後直ちに身支度をなし片瀬川口にある海岸燈の下に来たりて海岸警戒中、東方沖合に一大音響を発したるに打ち響き、片岸地区に向かって「津浪だ、津浪だ」と大音声を張り上げ、片岸地区の人々をして早く避難せしむるに至れり。

 花露辺地区に於いては、海岸に在りし大滝安五郎氏は海水の引け始めしを直感し、直ちに騒ぎ立て避難せしめ、高所にありては川畑辰三郎の妻ウメ氏は声の枯れる程海岸に向かって「津浪だ、津浪だ」と絶叫せりと。
 
 荒川地区に於いては、消防手熊谷音右ェ門氏は、地震の直後附近を警戒中、大音響を聞きたるに津浪を予感し、下荒川県道工事大倉飯場前に津浪だーと大音声し騒ぎ立てたるに、人々皆戸外に飛び出し避難する間に、鈴木幸男氏は自分の叔母が岩崎松の妻となりて海岸に住み居たりしため、岩崎に急を知らせんものと海岸に走り、その途中池田商店 前付近で津浪だと叫びながら海岸に行きしため、その声を聞きて避難せる者もありたり
。 

    唐丹村(釜石市唐丹町)役場の急報

 三月三日未明に大惨害を蒙るや、本村役場で早くも県に向かって急報せんもの
と武山義助氏を依頼し、三日午前十時出発大畑局に疾駆せしめ左の如く打電せしむ。

 
     ダイカイショウ キュウゴ タノム トウニ ソン チョウ
 

 三日午後七時本村役場にては、書記木村鶴蔵氏、訓導小野忠男氏、郵便局員
淀川正太郎氏、青年団員平野留蔵氏を急行せしめ、大畑局より県警察部に向か
って救護班の急派方を打電せり。三氏は其の晩、夜通し帰りて経過報告をなす。

    
    惨状偵察と海軍の救援
    

  三日午前八時には早くも三陸沿岸津浪の惨状はラジオを以って全国に放送され、午前十一時頃に至るや霞ヶ浦航空隊の水上飛行機及び内務省の偵察機、朝日新聞社の偵察機は爆音もいと雄々しく災害地上空を飛行し空中より写真を撮影し、此れを直ちに各地の号外に発表され、又活動映写機によりフィルムを作成、各都市に於いては惨状は活動映画となりて発表されたり。

 各新聞社の報道は、一報毎に惨又惨を加え、此れより各地の同情は翕然としておこるに至れり。此れより早く第一海軍区に於かれては、直ちに非常救急手段を講ぜられ、三日の夜には横須賀鎮守府より軍艦数隻に多大の被服糧秣を満載して急航せしむ。本村罹災者も飢えと寒さに生き残りし者も餓死する許りの所へ、四日の午前十時頃軍艦稲妻は黒煙濛々と入港し偉大なる船体を唐丹湾内に横たえたり。
 
 此れより軍艦のモーターボートは降ろされ、陸戦隊の白脚絆の水兵達は勇壮なる扮装で毛布五百八十枚、醤油二十樽、米麦二百袋、菓子七十箱、罐詰七十箱を小白浜埋立に陸揚げし、堆く積み上げたり、此れを見た罹災民は感泣するのみなりき。

       山林課の活動と罹災者の収容

 残寒猶烈しき三月初旬に於いて、一瞬の間に三陸沿岸漁民の住宅は微塵もなく奪われてしまい、生存者は僅かに流出を免れたる住宅に皆押寄せ混雑の状名状すべからず、住む家なく着るに布衣なく罹災者は只焚火に夜を明かす状態なりき。

 本村のうち小白浜地区にては、幸に学校と盛岩寺が残りしため大多数は二ヶ所に収容され、外は残りし家々に配分されどうやら寒さを凌ぎ得たるも、本郷は只一戸のみ残りし家に数十人の罹災者は雑居し、外に住むべき家なきため大曽根の開墾地に行くものあり、或は花露辺地区に行きて救助をお求むる有様なりき。

 片岸地区は山手の残りし家及び村社に雑居したるも、多くは川目地区に行きて収容されたるなり。荒川花露辺地区は、流出戸数少なく被害を免れたる家の多きため、割合に楽に収容さるに至れり。されども何時迄も斯くの如く不安定なる生活を辿る事能わず、一刻も早く各自のバラック建て住宅なりとも要望して止まざる時に本県当局は早くも着目され、山林課の総動員によりて三陸沿岸全部の罹災民を一時バラックに収容すべく計企され、直ちに青森県に向かって材料の購入運搬に着手され、ために本村には二百四十戸分の材料が供給されることとなる。

 一方罹災地には係員が急派され、盛岡に於いては建築大工を募集する等涙ぐましい活動は続けられたり。本村には、最初県山林課照井勝也氏が派遣され尽力されたるに、都合に依り交代し、農林技手鈴木正愛氏派遣さるるに至れり。鈴木氏は、本村の惨状に甚だしく御同情を寄せられ、職務のためとは言え乍ら全く献身的に御奮闘なされしは、村民一同只感謝に堪えざる次第なり。

 本村に於いては、本村助役又バラック建築の急務となるを賢慮され、小白浜地区にては未だ敷地の決定を見ざるため取り敢えず窮状甚だしき、本郷地区に九十戸分のバラック建設の計画を立て、本郷の佐野定吉氏、千葉内蔵氏の助力の下に着手し、村よりは訓導佐々木源次郎氏を嘱託特派し、本郷鈴木善三氏、佐久間磯治氏外罹災者一同又良く助力し、工事の促進に努力せり。

 県よりは、盛岡にて募集の大工三十名及び労働奉仕の紫波郡赤石村(紫波町)の大工十三名、労働奉仕の青森県川内村大工五名、計四十八名は三月十日より建築に着手し、窮状を目撃せる大工達は一日も早く完成せんものと不眠不休の活動は続けられ、八戸港より材料の供給円滑に行かざるも、三月二十三日頃迄には五戸建バラック十六棟殆ど完成し、間もなく全部引越し罹災者一同は狭いながらも我が家として落ち着き八十戸の集団は打って一丸とすべき団結力と燃ゆるが如き復興の心意気を示すに至れり。

 小白浜地区にては、本郷地区に建築中各戸毎に敷地を設定し、建築することとなり各々高所の地を選定したるも、何れも狭隘の地多くために五戸建或は独立家屋等建設するに至れり。小白浜地区に於いては、敷地の関係と家族の多きためと又職業的差異により多少の材料を添加して間取りを広くし、又独立家屋として各便利の地に選定し建築せしは一つの特色なり。

 四月半ば頃までには殆ど完成移転するに至れり。片岸地区にては、河東謙吾氏統制の下に、盛岡大工三十名を使役して六戸建、四戸建、二戸建等、殊に間取り等に意匠を凝らして建築され三月末迄には完成移転するに至れり。続いて花露辺荒川にもバラックが建築され、各移転するに至り殆ど四月二十日頃迄には村内全部完成され、一先ず我が家として落ち着き是より各生業に対しての念慮を繞らし燃ゆるが如き復興心の下に起つに至れり。
        

     皇室の御仁慈

 東北地方は天恵薄く畏くも陛下に於かされては、日夕御軫念遊ばれいたる土地なるに此の度の被害上聞に達するや、殊の外御心慮を御悩みあらせられ審らかに状況を調査せよとの有難き御沙汰を拝し、大金侍従直ちに罹災地発向になり、早くも宮城県を視察になり、

 三月七日本県に入り大船渡、大喜来、吉浜村(三陸町吉浜)の惨状を視察、本村には午後五時過ぎ大石より海路古峯丸に乗船、小白浜埋立に上陸、連日の御疲労の模様もなく本村の惨状を石黒知事、一戸旅団長の案内にて親しく御調査になり、

 柴病院に収容の傷病者に対しては各室毎に慰問の言葉を賜り、此より直ちに自動車にて本郷地区の惨状観察に向かい、その惨状に甚だしく同情を寄せられたり。

      津浪襲来と其の惨状

 ドン・・・・・・と落雷でもありしが如き然も唯一の音。恐怖の念にかられし人。枕を蹴立て素早く寝巻を脱し仕事着に着替え飛び起きし瞬間―脳裡に閃きしは津浪であった。

 直ぐ様海岸へ出て海面を見し時―退け行く浪の音凄まじく―見るみる三陸汽船の何時も碇泊せし箇所と思わるる辺まで真黒くなりぬ。点々と水溜りを思わせる如く白く光る箇所―悪魔の眼の如く― 鳴動する沖・・・・・・将に確信ある津浪襲来の恐怖胸に浮かびぬ。「津浪だぁー」
 

 吾一人ならず十人の人怒号した。雨戸を蹴破る音、電燈消え、今は唯暗黒。湾口は一層の危険を思わせる如く真黒の煙天に柱し波数メートルの高さに覆いて走り来るが見ゆ。

 今は父母に、妻子に―兄弟に急を知らさんとすれど声出ず  家へ入れば人影なし局坂へ向かいて走りぬ道路一ぱいの人蟻の如く、子を抱きし者―父母の手を引きし者―然し声を出すものなし。太い歎息と、重い足取りは進まず寺へ逃げ行く人足の音か?息づまる気、天地を圧す一人なれば足早し。

 高台へ至れば、苫の鼻附近真白く天に屹立する水柱、水柱、鐘楼堂の鐘の音、将に鐘の音。数秒経過せし頃か? ミリ ミリ ミリッとガラスでも破れるが如き音すれば直忽ちにして天に轟く音―暗くて見えず高台に在りし人、皆無気味な静けさを保つ一瞬に手明らかなり。  

 家倒壊せるを見る数分後か? 二度の波、襲い来る波高く大きくして家屋、石蔵皆押し流され、三度の波来たりし時は、河原を走るが如く岩石の転びあたる音聞ゆるのみり。
湾口一面に材木なり。津浪落ち着きし頃か?父母を呼び、妻子を尋ぬる声・・・今は必死なり。  

 烽火諸所に上る家内を家財を心配する人、烽火を囲みていろいろと語る真っ暗なり恐怖と失意。当に生けるロボットなり。唸り声聞ゆとの報に接す。走れば中村針師重傷なり。

大沢川の橋の下の材の下敷きに―同励ませど果なし引き上げし時、既に事切れ黄泉の客となる。見れば血ぐるみにて頭部其の他数ヶ所の創。

 情報頻りになり。世の中に知れる被害人名は死者六名、負傷者一名なり。(小白浜) 空けくれば湾口一面の材の漂流、洗われし宅地の跡、惨状言うべからず。

 引波強きか、大分の財海へ。尚渦流を起こせりと思わるるが如く ビルデング附近の家財、大沢川へ来たり居れり。

 本郷如何にと早朝に至れば、小白浜に勝る惨状なり。百二戸の家屋今は一戸を残すのみにて片影すら見えず。喚き声しきりなり。其の間にありて新沼丈之助氏父子懸命働き居たり。

 遭難者の談によると本郷にては、あの大地震の際不安を感じ、家財を背負いて高台へ逃れしも一度家へ来たりし時、古老曰く「晴天に然も満潮時に津浪来るものにあらず」と頑迷なる言に依り安心をなし床にもぐりしと。

 警戒者も少なく、北村の数人が海面を見入り、潮の退け行くを見て津浪襲来を知り知らすれども、寝につきし人なれば聞えざりしか?かすかに声を聞きし者、スワと飛び起きし時は、既に海岸の家屋倒壊し得るが如き、急にて逃げし人皆大杉神社へ走る。然るに道路狭く驚歎の余り脚上げ得ず声出でず。

 忽ちにして来る死の国―握りし手も、抱けし子も力尽き数珠つなぎとなりて海水の呑む所となりしと二度、三度の浪は、丈余の高さに逆立ち、然も大渦流をなし財と生命を弄びしも、津浪後一時間程は救いの声も聞こえしと。
然も命を拾いし人々も、今は恐怖と寒さのため活動できず、唯聞くのみにて落涙するばかりなり。

 二度波にさらわれ、三度の波にもまれ辛うじて生命を得し若者の談に依ると「私は、一度家内と共に大杉神社境内へ逃れしも他の人一人も来らず、再び家へ下りし時、古老の言を聞き益々安堵し、家へ入ろうと家内揃うて歩を運びし時「津浪だー」という声を聞き、急いで母の手を握り坂屋の家の辺へ来たりし時、

 母と共に波に巻き込まれ施す術なく、母の手を離し必死になって泳ぎしも逆立つ波は材木を石を空に飛ばし危険此の上なく、止むを得ず海中にもぐり口をふさぎ目途なく泳ぐ。何時しか屋根の如き物の下に居るに気付き、爪を持ってあらん限り引き裂こうとすれども裂けず、計らずも船のプロペラにさわる。始めて船の下に居る事を知り上がろうとしてもあせるけれども出来ず、三度の波にて打ち上げらる。

 気が付きし時は、皆に介抱され居りし時なり」と、語を次いで「私は、母の手を離し泳ぎ歩き居る時、大部分の流泳中の若者達は、元気にて満州の兵隊を思い起こせ何これ位の事で死ぬものかとお互いに元気を付け合い居たるも、二度、三度の波に離ればなれになり声遠くしなりし」と、暗涙にむせぶ様、いとど悲痛の極みであった。

 斯様なれば本郷の死者最も多く、田老に次ぐ惨事を呈す。落ち着きし今日聞くと、周章狼狽とは斯くやと思われるほどコッケイ至極なものがある。子供を抱き逃げしと思い見れば杉葉をギッシリ抱きしめて居るが如く。母と思いしは他所の祖母さんであった等、其の光景聞くもいたまし。

 時間的に襲来状態を記すなれば本郷最も早く、本郷の返し波花露辺を襲い、其の頃荒川片岸襲われ小白浜最後なり。恐らく本郷と小白浜は、三分位の差ありたるもとに推察さる。

 死者、負傷者多き本郷にては、地区民にて負傷者を収容出来ず、小白浜地区民の手助けにより新沼丈之助氏方へ急造担架にて運ぶ。然も零下四度の寒さなれば一刻を争うものを、未明に至りしなれば陸に上げられし人の大部は凍死す。

 其の惨状跡亦言語に絶し、首のなき者、脳露出せし者、大腸はみ出でし者、之が昨夕迄の人でありしかと、今更涙にむせぶばかりなりしは恨めしく思わる。負傷者割合に少なきは前述の如く手不足と零下四度の気候の然らしむるところなり。左に
波高、秒速、死者、負傷者の統計は記せん。   波高 五米 秒速 十米

      各地区の被害一覧表

地区名 総戸数人 口 被害者戸数生存者 死亡行衛不明 負傷者 出動将兵被害 発動機船被害 小漁船被 害 家畜
被害
被害価額
(円)
花露辺   66
 403
   11
   99
  6  4  12   -    7  33 - 47,770
本 郷  101
 620
  100
  297
117
208
 21   1    9  52 豚 12
其ノ他 9
123,785
小白浜  160
 958
  104
  566
   3
   4
  6   1   21  100 其ノ他
 35
571,964
片 岸   48
 301
   33
  199
   2
   4
 -   -    1   17 牛 2 62,563
荒 川   71
 447
   10
   51
   7
   4
 -   -   -   4  豚 1
其ノ他 18
9,782
大 石   78
 490
    1
    5
  -   -   -    3   24   - 4,725
山 谷   25
 161
   -   -   1   -   -   -   - -
549
3,380
  259
 1,217
135
224
 40   2   41  230   77 820,589

                                           ※ 家畜被害欄中ノ其ノ他トハ兎及ビ鶏ヲ含ム                                                                               
       湾内流失物の処置

 恐怖と失意のどん底へたたき落とされし今は、唯生命の貴きを知るばかり、骨肉の父母兄弟―数十年の蓄財・・・瞬時にして去りしを思えば暗涙のみ。茫然自失其の去就を知らず明日の食を・・・否今日の食を如何すべきか?右に左に心は落ち付かず、腕をこまねぎ惨害を見入る様狂人がと怪しまる、渚に遊ぶ財は今は恨めしく見ゆるのみ。

 骨肉の死体すらも人手のなす所、況んや財に於いておや、流失物湾内に満あふれども心にあらず、あまつさえ船なく蒐集に努める者更になし。 然れども何時迄斯くあるべき生きし者のなすべき事の一々を知りし、村有志は殆ど被害なき、大石浜よりの二艘の発動機船と五艘の小船とを以て蒐集せしめんとす、然れども自分達の財なれど拾わんとする罹災民なし、非罹災民之れに従事す。三日には発動機船並びに小舟の繋索をなし他の物の蒐集も心掛けしかども意の如くならず、船を出せしは昼頃なれば海遠く去りし物亦数うべからず。

 箪笥などは皆破られ形なく、陸より蒐集可能の物の外、海水の弄ぶ所となる。陸上にありし物は、各自拾い歩き三日の後には陸上殆ど整理され、四日の後より小船にて海中に没せし物の蒐集に努む。然れども海底は一面の泥にて意の如くならず、本郷湾など二米程の泥海との事なり。然ればいの如くならず、必死の努力にて反物衣類など拾い上ぐ。

 米俵炭などは皆罹災民の食料薪炭となり、反物衣類などは立会の下に各自に手渡す。所有者不明の物は皆配給所に当てられし学校へ運び乾かす、後入札になすとの事。材木、畳などは皆陸上げなし、不明の物は役場保管者となり、公共建築材になす。流失材湾口を塞ぐ程の多数なりしも、蒐集すべき心なき為活動遅く湾外へ流失せしは残念なれども其の心境に至れば斯くなる物と今更口惜し。

      慰問品の配給

 住むに家なく、喰うに食えない罹災民に救いの神を待つのみ。通信機関の一切は途絶し、飛脚のなす所さながら昔に帰りしが如く、移入で生活を保ち居る罹災民なれば、山谷荒川片岸方面よりの食物の応援意の如くならず、当局為に苦慮す。然るを県の活動敏活にて、三日前七時という庁員招集せしとの事、四日より釜石署下四ヶ町村は配給は開始せらる。

 県庁配給員たる社会課員、不眠不休にて警察部の被害調査と町村よりの被害調査報告とを基礎として町村別配給率を定め、全国各地よりの慰問品並びに県よりの配給品を即日配給なすの敏活さ。慰問品の亦多数にして其の敏活を以てして、なお本署広場並びに本署正門前道路に山積みす。

 終日汽車、汽船、トラックにて海陸両路より来る物数えられず、其の荷受けさえ終日の仕事と思わる。山積みせる荷物は非罹災町村よりの応援消防夫並びに青年団員により、四ヶ町村へトラックにて直接にまたは間接に運搬さる。彼等亦不眠不休にて、荷受けに荷渡しに握り飯にて活動を続く、其の活動たるや涙ぐまし、吾々罹災民感謝の言葉なし。

 本村にても早速配給船金比羅丸を廻航せしめ配給を受く。四、五日の間は消防夫派遣し配給船への積み込みをなせしも、翌九日より小白浜青年会に当る。団員未明釜石本署配給所に至り窮状を訴う。然れども率の示す所如何とも仕難し不得止。

 かくなれども青年の血を吐く窮状の叫びと苦痛を訴えれば署員を動かさずにおくものか、遂に署員の本村派遣となり、翌日より配給船二十トンの船は満船にて帰航するを得、村民との咄嗟の生活並びに人心を安定せしめしは、真に熱ある青年の活動と 員の時宜に敵したる最良手段の誠意ある所と村民非常に感謝し涙を流し、日本国家の有難さをしみじみと述べしは、非常時日本にふさわしき情景なりしなり。十四日より第一部消防組と青年会と二日交替にて配給を受くるに至る。

 全国人の同情は数日ならず日毎慰問品山積みす。配給船何時の日も満船にて帰航す。今は旧に倍せる如き衣類の山、然も二月に渡る全国民の同情如何に文明文化と言いしも斯くばかりなるを今更驚き、日本国民への心情益々強く感謝の念禁ずる能わず。斯く運搬せられしを村職員の手より各部落区長へ被害率に依り配給をなし、更に区長より伍長へ、更に伍長より各人へ数に依り配給す。衣類は、目分量にて山になし分け番号を付し抽せんに依り分配す。

 米、味噌は、計量器の示す所より下駄、ござ、其の他の物も略確実に配給せらる。然も今日に至れば必要品皆揃え日常事欠かざる状態にして、全国民よりの同情身に沁むを覚ゆ。慰問袋など受け取るを其の日の楽しみと考えるに至りさながら玉手箱を戴くが如く、其の中には可憐なる子供よりの手紙や血を吐くが如き激励の手紙など数知れず、一層の元気意気を植えつけられしは感激の外なし。

 斯く確実なる配給をなし得たるも之れ皆全国よりの多数の慰問品と各人の自覚によるものなり。然れども人心未だ不安状態去らず、恐恐の折柄デマよりデマ飛び、其の不安一層なり。津波再来のデマなど、流失物のいんとく、配給品の不平等々頻なり。関東大震災も斯くやと思われる。

 其の間にありて花巻署よりの警部殿以下十数名の警官の心痛餘りあり。応援警官亦三浦本村駐在巡査と協力し、死体検視に人心不安一掃、秩序恢復に、他方には損害調査に日夜労苦を惜しまず東奔西走よく努力致せられしは感謝に堪えず。斯くなれば警官の努力は報いられ、人心不安一掃し安んじて跡仕末に従事し得る機会を与えられたるは喜ばしき所なり。

 当時来たりし警官の芳名並びに本村配給係員の指名を記せん。警察官 花巻署 今野巡査部長外六名=警護治安維持。   衛生課福地警部=衛生。  唐丹村配給係 松田勇蔵、木村鶴蔵、高橋正、各区長、各伍長。

       死体捜索と始末

 余りに大きい瞬時の従ら、誰が予想したであろう。未明鱈縄へ送りし妻が、子が今日の日に迎えざりしか 昨日の喜びは、今朝は悲しみとして迎えねばならないとは誰が察知したであろう。三百余の物言わぬひと。今は何処に去りしか?尋ねんとする目途なし、僅か二百有余の死体のみ。他町村よりの応援隊員と消防、青年の力に尋ねれば今ははかなし首なき胴、顔つぶれ、材木の下敷きに、 を覆い人名すら明白ならざる人、見るも無惨なり。

 近親之を呼べば血を吐くの古語を信ずる遺族懸命に之を呼ぶ 父は子を、子は親を兄弟を、叔父叔母を。此の世の地獄名状すべからず。今は陸を隈なく探せど、尚見えざりし二百余の死体、一縷の望みを海に托し小舟をもて捜せど見えず、潜水夫に依れども空し。

 力尽きたる遺族トロール船に依り捜索す、亦空し。暴浪に奔弄されし霊は遠く去りしか。当初よりの望みは今絶え、暴風雨に依る偶然を頼みとするに至れり。数日にして暴風雨来たれども見えず、頻りにデマ飛ぶ、汽船数十個の死体を見しとか、海底深く沈みしとか 恐らく湾口外に出で遠く南の国へ去りし者と推察される 津波当時、南潮激しく風激しきなればなり。死者と断定去るべきも、法規の示す所如何ともしがたし。亡霊となりしも、尚生存者となり居るは気の毒の極みなり。

 今は望みなき死体捜索  発見されし者ばかりも懇ろに葬りたしと考えるもならず  昨日迄戯れし幼児いつくしみ父母の面影なき死体を受け取る。近親の心情誰が知り得よう。医師の検視後近親之を引き取り、一家内の者は一度重ね死せし姿にて薪を重ねて焼く。後始末未だならざる凄惨な海岸に

    救護団の活動

 今回の三陸沿岸を襲いし津浪は、関東大震災以後の最大の悲惨を極めた天災なり。時恰も帝国多事の秋、挙国一致外には国難の打開に当たり、内にはひたすら只管銃後の守りを全うすべき時に、斯くの如き天災に禍いされたるは何たる不幸ぞや。

 惟うて一日もこの惨状を黙過し触わず、茲に於いて本県庁にては直ちに各地に向かって救護団の活動を依頼せるに、各地の同情翕然として起こり、殊に本県は挙県一致非常の決心を以て隣保相扶奮然として起こち各消防組、在郷軍人団、青年団、自警団等陸続として来たり、廃虚の如き罹災地に夜具、食料携帯の上救援に尽力されたり。

 本村に来たりし救護団は、本村の報道以上の惨憺たる惨害に甚だしく同情され、惨害の整理復旧に流失家屋の取り附片けに、慰問品の配給運搬、家族の救出、死体捜索等涙ぐましき活躍を続けられ、罹災民をして豁然として悟らしむるに至れり。

 本村は、地理的関係より窮状は良く、県社会課警察部等に・知悉せらぬために救護団の派遣割合に遅く、三日四日五日の中は村内救護班のみにして、六日に至り和賀郡小山田町(東和町)消防組の遠く来村せるを見て、罹災民は嬉しき涙をに以て迎えしなり。

 三月三日  本村駐在巡査三浦正雄氏は、三日朝本郷の惨状を直視するや救護班の必要に逼られ、機敏にも荒川県道工事着手中の有田組、田村組に消防員を急馳せしめ救助を求めたり。

此の急報に接し両組に於いては落成期限の切迫せるにも拘らず工事を休止し、有田組の石川昌三氏外五十二名及び田村組大倉喜作氏外五十名は直ちに現場に急行し、死体の捜索に重傷者の収容に運搬に尽力されたり。


 三月六日七日八日 和賀郡小山田町(東和町)消防組組頭菊池浩一郎氏外二十二名、本村には他町村救援団としては最初に来村され、宿所を小白浜小学校に定め、本郷地区に赴き死体の捜索に或は後片附けに尽力され、罹災民の狂乱せる間にも良く同情且つ激励の言葉を与えつつ三日間の救護に努力され、予定の活動を了えて無事九日帰村せられたり。


 三月六日  吉浜村消防組 青年団吉浜消防組第二部長白木沢平太郎、第三部長水上助雄氏外二十二名は、自村吉浜村も相当の被害を受けたるも、本村の窮状を聞き、特に六日に来村せられ本郷地区の跡片附け、其の他に尽力せられたり。


 三月八日、九日十日 岩手郡本宮村(盛岡市本宮)青年団団長小笠原静雄氏外二十三名は、遠く本村に参り手宿所を学校に定め、本郷地区の死体捜索及び跡片附けに尽力され、小笠原団長の指揮宜しきを得、喇叭の合図に凡ては規律的訓練の下に奮闘され、作業の跡も歴然と四日間の予定を終えて地区民の感謝の涙に送られつつ帰村せられたり。


 三月十日十一日十二日  和賀郡二子村(北上市二子町)青年団 補習学校生徒団長高橋信太郎氏、 理事梅木義夫氏外三十名は、九日来村せられ、宿舎を小白浜小学校に定め、十日より本郷地区にて作業に従事せり。

団長高橋氏は、二子補習学校の専任教員にして良く三十名の団員を銃督し、十日朝本郷地区に至り死体荼毘の煙に包まれつつある惨害の中に立ちて団旗を前に一同は整列し、津浪溺没者の英霊に対して屡々黙祷を捧げられ、其の後愈々作業に着手されたり。

 此の頃は丁度本郷地区に於いては、八十戸分のバラック建築に着手すべく、八戸港より運送船が材料を満載し午前十一時頃本郷に入港せり。船は材料運搬に寸暇も無き時なれば、夜半に至るとも陸揚げを終了すべき船長の意見なり。

この陸揚げ作業に二子青年団高橋団長に依頼せるに、高橋氏は、自分等は非常の覚悟にて来たりし者なればとて此れを快諾され、団員一同は地区民炊き出しの握り飯に空腹を凌ぎ乍ら海水に浸りて陸揚げし、昼の疲労の色も見せず午后九時過ぎ迄奮闘せられ、廃虚の跡に月影淡く煙に包まれて凄惨極まりなき本郷地区を夜半に引揚げたり。

  翌日よりは八十戸分の堆く海岸に積み上げられたる材料を現在のバラック敷地まで運搬し、或は良く惨害の跡片附け等に尽力され、予定の日数を無事終えて帰村するときは、団員殆ど片を腫らし脚を痛め地区民の涙の見送り二十三日未明釜石経由帰村せられたり。

其の後 青年補習学校は、成績優良にして文部省の表彰を享けられしは、慶賀に耐えざる次第なり。

三月十一日十二日 気仙郡日頃市(大船渡市日頃市町)消防組日頃市消防組小頭斉藤万次郎氏、第一部長鈴木佐太郎氏外七十名は、十一日、十二日の二日間本郷地区と小白浜地区とに二分してバラック材料の運搬、バラック敷地の整理作業に尽力し、十三日正午頃無事予定の任務を終えて帰村せられたり。

 三月十一日十二日十三日 和賀郡岩崎村(和賀町)青年清明会清明会とは、県民諸子の知悉せる石黒知事主唱の六原青年道場終了者を以って組織せられたる青年団にして、此の清明会員及川光蔵氏外十名は十一日来村され、元小白浜消防屯所に宿舎を定め、日頃鍛えし腕を持って本郷地区の整理に、バラック材料運搬に尽力献身的努力を捧げられ、十四日予定の行動を了えて帰村されたり。

 三月十三日 十四日 十五日  和賀郡飯豊村(北上市飯豊町)青年団飯豊青年団斉藤忠勝氏外十七名は、十三日来村、盛岩寺本堂裏に宿舎を定め、小白浜地区の材料運搬、本郷地区の整理、気仙水電電柱架設作業幇助等に従事良く献身的に尽力され、十六日予定の行動を終了し帰村されたり。

 三月十二日 十三日 胆沢郡古城村(前沢町)青年団古城青年団副団長小野寺正治氏外十名は、釜石にて救護作業に従事し釜石より帰村の予定なるに、釜石にて本村の窮状を聞き十二日本村に到着、小白浜校に宿舎を定め、本郷地区のバラックの材料運搬或は惨害の後片付けに尽力され、十四日無事帰村されたり。

 三月十三日より十八日まで紫波郡赤石村(紫波町)桜町大工建築請負業鈴木永治氏十二名は、労力奉仕として十二日来村せられ、本村の窮状に殊に同情し、一日も早く罹災者に住宅を与えんものと本郷に小屋掛けをなして宿舎とし、十三日より直ちに本郷バラック建築作業に従事され、県大工と共に不眠不休の努力を続けられ、十八日迄に五戸県バラック一棟半を建築し、無事予定の奉仕を終えて帰村せたれたり。

 三月十二日から十九日まで青森県下北郡川内村大工笠井盛三氏外四名右五氏は、遠く青森県より本村に参られ、本郷バラック建築に労力奉仕として奮闘せられ、盛岡大工、赤石村大工達と共に不眠不休の奉仕をなし、五戸県バラック一棟を建築し予定の奉仕を終えて帰省せんとせるに、本村帰村助役より猶引続き従事せられたきことを懇請されしに、事情諒察笠井氏、高田藤吉氏、工藤兼吉氏の三氏は後迄の残り従事することとなり、本郷バラック完成後は花露辺のバラック建築をなし、四月末に罹災者の感謝を受けつ名残惜しくも遠く帰村せられたり。

 三月十三日  釜石町(釜石市)白浜消防組  白浜青年会隣村白浜青年会、消防組は、白浜地区の惨害取り片付け中なるも本村の窮状に同情を寄せられ、特に十三日本郷に海路来たりて死体捜索或いは惨害の跡始末に援助され良く尽力されたり。

 三月十三日 十四日 日頃市消防組第三部長鈴木伊太郎氏、第四部長杉山仁右エ門氏六十九名は、第一部、第二部と交代に来村され、小白浜校に宿舎を設け、小白浜地区の跡片付け或は小白浜校に収容されたる罹災者の炊事小屋の小屋掛け等に尽力され、殊に塵芥等の焼却をなし、此れが消化にポンプを使用して打ち消し、小白浜地区罹災者に不安を抱かしめざるは真に感謝に堪えざる次第にて、十五日無事予定の行動を終了して帰村せられたり。

 三月十四日 十五日 胆沢郡真城(水沢市真城)青年団 二十五名 自警団 十六名銃導員真城小学校訓導高橋清見氏、自警団第一部長瀬川勝雄氏、第三部長及川力雄氏、第四部長梨川一郎氏外三十七名は、気仙沼より三陸汽船にて十四日来村せられ、盛岩寺観音堂に宿舎を定め、本郷に赴きバラック材料の運搬及び跡片付けに従事し、殊に自警団員一同は海岸よりバラック住宅地迄の道路を修理する等、全く献身的努力を捧げ、十六日予定の行動を終えて無事帰村せられたり。

 三月十五日より十九日まで岩手中学校配属将校現役陸軍少佐小林島司氏、 校教論志賀義雄氏外 校五年生十名は、十五日来村せられ、初めは本郷地区北岸に天幕を張り奉仕作業に従事し、半ばになりて盛岩寺観音堂に移転し、本郷に通いて尽力せり。十名の生徒は、皆盛岡良家の子弟なるに 校の 体験労作教育の方針より此の度罹災地に特派することとなり、来村されし十五日の日より直ちに着手し、金ボタンに巻きゲートルの姿勇ましく、本郷バッラクの材料運搬、惨害の跡始末、雨天の日は罹災民収容所たる小白浜小学校の舎内掃除迄さながら学校にある如き厳粛なる規律を守り献身的に奮闘させられたり。

 作業半ばにして小林先生の御令息急病のため突然御帰盛されたると、又生徒の中厨川駅長の御子息盲腸炎を起し就床し、父上と兄上の態々当村に御出で下されしは誠に御気の毒にて同情に堪えざる次第なりき。されど志賀先生の統率の下に九名の生徒は無事予定の行動を終えて、十九日帰盛の途に上れり。うら若き青年学徒の将来に於いて定めし思い出深くし、又偉大なる体験を得し事を想うて猶将来の成功を希うと共に岩手中学校の発展を祈る次第なり。

 三月十八日 二十二日 二十三日 稗貫郡湯本町(花巻市湯本)青年団団長高橋正右エ門氏十四名は、二十一日帰来され小白浜小学校に宿舎を定め、小白浜部落のバラック敷地作業に活動され、雨降りの日も元ともせず良く尽力され、二十四日朝予定の行動を終えて三陸汽船にて釜石経由帰来せられたり。

 三月二十二日 二十三日 胆沢郡南都田村(胆沢町)東田土工園 土工団長高橋斌男氏外十名は、二十一日来村せられ二十二日より本郷小白浜の県道の修理工事に尽力され、二十四日無事帰来せられたり。この後盛岡聯隊区の命を受け、盛町在郷軍人分会刈屋友治氏五十名、世田米村(気仙郡住田町世田米)在郷軍人分会、横田村(陸前高田市横田町)在郷軍人分会管野彦七外六名等来村せられ、其れぞれ惨害の整理に敷地の作業に尽力せられたり。

     罹災者と救療班の活動

『罹災者の健康状態』連日厳寒の襲う三陸罹災沿岸地方は、気温の低下甚だしく九日は零下十度七分という。薄着の罹災者にとっては殺人的寒気が訪れ、ために感冒流行し、中には急性肺炎を併発して重態なる者も出来るに至れり。本村に於いては、小野寺孟夫氏の長男小野寺芳信君(三才)及び赤羽正夫君(二十二才)が学校に避難中に急性肺炎を起こし、一時は重態なりしも漸次経過良好なりき。外多くの罹災者は良く健康を保持し居たるは、良く防寒に留意せられたるによる。

 只配給品は、単一植物にて米、鰹、鱒、鮭、鯖、福神漬のみにして、野菜類、新鮮なる魚類、味噌類等の要求多かりしなり『罹災者の津浪直後の精神状態』津浪直後の罹災者の精神状態は、先ず誰もが考えたる近親者の安否を気遣いたるものの如く、事業家又漁船漁具の安否を、一般罹災者は自己の家、家財道具の安否を考え、此等が判然し行くにつれて家族の将来に対しての生活上の煩悶に皆茫然たる者の如し。

 『救災者の津波直後の精神状態』津波直後の罹災者の精神状態は、先ず誰もが考えたるは近親者の安否を気遣いたるものの如く、事業家は又漁船漁具の安否を、一般罹災者は自己の家、家財道具の安否を考え、此等が判然し行くにつれて家族の将来に対しての生活上の煩悶に皆茫然たるものの如し。

 『救療班の活動』救療班の活動を記すに当たり先ず特筆すべきは、柴診療所の活躍なり。即ち明治二十九年の津波に際しては、木村は甚大なる惨害を破り数多の死者を出し、重軽傷者の又多かりき、此の重傷者救護のため全く献身的努力を続けられ村民一同の感激を受け、柴琢治氏は再び此の悲惨極まりなき津波に遭遇せられ救護診療に献身的活動を捧げられしは、罹災者一同感謝に堪えざる次第なり。

 特に今回の津波に際しては、前回の津波による尊き体験と一昨年釜石病院唐丹分院として新築建物充実せる諸設備とに依りて萬遺漏なき救療を施されしは、又真に幸甚の至りなり。

   
 柴琢治氏は、未明津波の襲来を知るや直ちに小白浜地区の負傷者を救護せんものと惨害の中を踏査され、磯崎六之丞氏妻タカの孫ウタ子(七歳)を背負い、頻死の状態にて倒れ居たりしを探し出し応急処置を致されし、其の甲斐なくタカ女は惜しくも黄泉の客となりしも、背にありて今や凍死せんとするウタ子は救い出されて早くも手当を受けしため一命を止め得たるは、全く柴琢治氏の迅速なる活動による者なり。

 未明なる柴琢治氏は、看護婦平松マサ女を伴い三浦巡査と共に本郷に急行せり。着するや本郷は重傷者の呻吟、死者の伏屍阿鼻叫喚のなり。直ちに負傷者に対しては救急処理を施し、頻死の状態の者に対しては焚火をなして暖を取る等、神妙なる活動をなされ後此れ等負傷者は全部小白浜診療所に運搬収容し、此より両川重吉氏、鈴木フヨ女、大向フミ子、小野寺末子女の助力の下に全く全員一同涙ぐましき活動が展開されたり、斯くしている中に遠く其の窮状を聞き、救療班の応援団来村せられ良く応援せられるるに至れり。救療応援班の状態を略記せん。

 三月四日より六日まで盛岡一戸医院  一戸氏以上の如き応援を受けて治療を受けし者二百八十余名の多きに達し、三ヶ月に亘る柴診療所全院の献身的活動は実に偉大なるものにして長く感謝の一念として罹災者一同の脳裡に深く刻まれたるを思うて筆を止む。

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