幸せに生きる 
            久慈市・長泉寺住職・藤原耕道


  目は見るため、耳は聞くため、口は言うためと、食べる
ためにあります。それを見ぬこと、聞かぬこと、言わぬこと
にするというのは、見たことを見ないとし、聞いたことを聞
かぬこととし、一切口に出していわないことなのです。
 
 封建時代は人々の、言論の自由が奪われていたからで、
見ざる、聞かざる、言わざるも、その時代の産物です。

 今はそんな時代ではありません。おおいに、見るべし、聞
くべし、言うべしです。ただし、そうした時代だけに何を見、
何を聞き、何を言うべきなのか、深い考察が要るのではな
いでしょうか。

 現代の社会全体の特長は、個人主義的民主主義、こう
いう時代、人はみな自分の利益だけを追求し、国家単位で、
国をとったとられたとさわぎ回り、今日では個人と組織が金
をとったとられたとさわぎ回る。人間のやることなど、実にお
ろかなものです。        
 
 取る論理と、与える論理を調和させることはできないか。
みんなが、幸せに生きるのは、どうしたらいいか、その考え
の中で、自分達の幸せを、考えられないか。

 見る・聞く・言う・そういうことのために使えないか。目に見
えることを、確実に見ることは、上手になったが、目に見え
ぬものを見ることが下手になったのではないか。

 人の心は見えぬ、見えなくなったのは、自分の幸せだけを
思い、人の幸せを思わなくなったことです。
 
 自分の都合のいいことだけを言い、人の言い分を聞かぬ
のでは、コミュニケーションは、よくならない。人の言うことを
聞くのは、相手の立場と人を知る絶好のチャンスです。
 
 見る・聞く・言う・すべて自他の幸福の為と思うことが、幸せ
になる近道ではないでしょうか?