慈眼をもて
                   北上市・宝積寺住職・藤村浩禅


 私たちは何気なく知っている人に会いますと「お変わ
り有りませんか」「ええお陰様で」と言いながらお互いの
安否を気づかいます。

 中国に『幸、不幸問えばいずれにも頷きし、問う我も
同じいり日に染まる』と言う詩があります。相手に対し
ての心思いや、又自分も同じようにあざなえる縄の如
く幸、不幸があるということです。

 仏さまの教えの中に悲しい心と書く『悲心』という言葉
があります。

 これは悲しい心のことではなく、大きな悲しみの体験
された方が「このような悲しみは他人様には絶対味あ
わせたくない」と思い、

 同じ悲しみを味わいつつある人にありったけの温か
い心を差し延べていく、その心が『悲心』と言う事で慈
しみの心であります。

 私達は現状だけで物事を判断し、その本質を見つめ
られない弱さを持っていますが、この心を発こすには
物事の真実の姿を広く深く見据えていかなければなり
ません。

 「みる」という漢字は多くありますが、同じ「みる」でも
病気の人を看護する場合の看護とは観察なくして看護
なしの言葉通りであり、

 診察とはお医者さんが患者の体を良く診て、手当て
する事でありますが、総ての体質を見通すのが観音菩
薩の『観』と言う事です。

 「心理を観じて心静かな境地で、世界のありのままを
正しく見つめる事」「仏さまの智慧を持って物事の道理
を観知する事」であります。

 『観』と言う字は、とてつもなく広く、深い意味が込めら
れています。観音菩薩様は仏の位に充分入られる資
格のある方ですが、

 自らとどまって、私達の悩みを救い、癒し安らぎを与
えた後に自分も仏の世界に入られるお方でございます。

 この観音菩薩様は、世の中の音を観て心の奥深いと
ころで聴いています。

 このめまぐるしい世の中でありますが、心静かに自分
の姿を見つめ、宇宙の真実を観つめ、正しいみ法の教
えに従いながらおぼつかない足取りでも、地に足をつけ
る日送りをしたいものでございます。