五 円 玉
          陸前高田市・光照寺住職・高沢公省


  「おめさま、五円玉入れるもんでねーば」と、ある日、
本堂から女性の声が聞こえてきました。どなたかが浄財
箱にお賽銭を入れようと、財布から五円玉を取りだした
ところ、側にいた女性が制止したというものでした。
 
 良縁を願うときは「ご縁がありますように」と、人にあげ
たりもするのに、お寺のお賽銭には、五円玉を使っちゃ
如何という観念、つまりこの女性は普段からお寺を「死」
とか「葬式」とかに結びつけて考えていたんです。

 いわゆる「縁起を担いだ」というひと声だったんです。 
縁起がよいということも、悪いということも、結局は「自分
にとって」という「都合」なんですね。

 五円玉なら五円玉そのものには何の罪もないんです。
あんまり担がない方がいいんですよ。担ぎすぎると肩凝
りはするし大変です。
 
 さて、この「縁起」という言葉。もともとはこの世の中の
真理を表した言葉なんです。「縁」とは「条件」とも言い換
えることができます「さまざまな条件によって現象が起こ
る起こり方の原理」を実は「縁起」といいます。
 
 例えば、小宇宙と呼ばれる私達の肉体。今、あなたは
どうして生きていられるのか。と質問しますと「心臓が動
いているから」と言葉を見つけたりもします。
 
 でもその心臓だけを取り出しても、心臓だけでは生き
続けられません。他の臓器と結合し、それぞれの機能
の役割がきちんと果たされて、初めて正常に心臓も動
いてくれます。
 
 時間的、空間的に縁という条件が働き、重なり合い、
あるいは分裂し、そういう常に流転変化している状態の
ほんの一部に「私」という人間がいるのです。
 
 仏さまの教えは「真理」を説くものです。縁起を担がん
でも大丈夫。私達は、死ぬまで生きていられますから。