六根清浄
             遠野市・曹源寺住職・菊池章道


 六根清浄。皆さんはこの言葉を口にされたことはありませ
んか。この言葉は、仏語でありまして、穢れなき体と心とい
うことであります。

 富士山など霊峰に登るとき、その無事を願って口にする
六根清浄は、日本古来の山岳信仰と結びついて、聖なる山
を穢すまじという気持ちの表れであります。

 さて、この六根清浄とは、私共に生まれらがら具わってい
る眼・耳・鼻・舌・身・意の六つを指しています。この六根に
我欲という欲望が付着して、煩悩や迷いが生まれるのであ
ります。

 穢れた六根とは、まず眼ですが、もし差別や歪んだ目線
で世の中を眺めたとしますと、白いものも黒く見えたり、真
っ直ぐな物も歪んで見てしまいます。

 また耳で聞く音、鼻で嗅ぐ臭い、物の味を確かめる舌,
更には舌のある口は、綺語・両舌・悪口をいって人様を傷
つけたりもします。

 身(からだ)ですが、暑いの寒いの、あるいは痛いの痒
いのという感触と、男女の邪な性欲によって、身を崩して
いる例も少なくありません。

 六つ目の意(こころ)ですが、このこころは目に見えない
だけに常に揺れ動き、飽くことを知らない無限の欲望とな
って、娑婆の迷いの輪廻を繰り返しているのであります。

 「我がこころ鏡にうつるものなれば、さぞや姿は醜くか
るなむ」といううたもありますが、まさしくこの通りかと思い
ます。

 この六根こそ我欲という世界に根を張った迷い、煩悩
の根源なのであります。

 この我欲に執着する限り、
      六根清浄は掛け声だけに終わってしまいます。