煩  悩
            前沢町・西岩寺住職・横合宣雄


 私の寺の境内には桜の木が十数本あります。四月の桜花
爛漫の頃には、ご近所の方は勿論のこと、バイパスを走らせ
ている車を、わざわざ寄り道させてまでも花見に訪れる方が
いるほどに,老木ですが見映えのする桜です。
 
 しかし、今は一枚二枚と風に身を委ねて地に帰る季節です
から、人を引きつける力はなく、あるのは落ち葉掃きだけで
す。
 
 風の吹き具合を見て落ち葉掃きをしている私に、通りすが
りの方々は「ご苦労様、大変ですね」と声をかけてくれますが
「きれいですね」とか「風情がありますね」と云われたことはあ
りません。
 
 箒を動かしながら私は考えます。花見の季節が生ならば、
落ち葉の季節は死ではなかろうかと。
 
 なれば我々人間の世界とは反対だな、だって人間は誕生
の時よりも告別の時の方が、人は集まるではないか。
 
 何故なんだろうと、更に考える。亡くなった人間も枯れ落ち
る桜の葉も、それぞれに我々に与えてくれたものがあるはず
だし、受け継ぐべきものを残してくれたはずです。
 
 なのに桜の花を見て、心を満たした人々は、何故落ち葉に
目をかけてくれないのだろうか。
 
 落ち葉が与えてくれる煩悩の中で、掃き掃除をしている私
は、春に花見をした人が秋には掃き掃除に来てくれることを
心のどこかで待っています。
 
 落ち葉は私の煩悩と思い、無心に掃き掃除が出来ればよ
いのに、煩悩は濡れ落ち葉のようで掃いても掃いても付き
纏って、なかなか払い切れませんが、濡れ落ち葉は暖かい日
差しか、適当な風があれば掃くことを容易にしてくれます。
 
 私たちの煩悩にも暖かい日差しとか、適当な風に変わるも
のが、個々に見つけられればいいですね。