自我と無我の間で
久慈市・長泉寺住職・藤原耕道
「ちょいと一杯のつもりで呑んで、いつの間にやら梯子酒」昔流行 った歌の文句ではありませんが、誰しも似たような経験があると思 います。 たばこや深酒は良くない。空き缶ポイ捨て良くない。他人の噂話 は良くない。すぐカッとなるのは良くない。このわかっちゃいるけど (理屈)やめられない(行為)の間のずれや矛盾はどこから来るの でしょう。人間と違って他の動物は、本能感情のままに行動するの が自然です。 ところが私達人間は理性といわれるものがあって、それにストッ プをかけます。つまり理屈では分かっている納得はしているのです が、やはり感情で動いてしまっているところに、自己矛盾があり、 葛藤があるのではないでしょうか。かといって他の動物のように振 る舞えません。 他の動物と違って、人間は自我に目覚めており、自分というもの を他から切り取り確固とした存在と考えて(仮定)その自分(自我) の理想的あり方を求めよう(理性を持つ)としているのではないで しょうか。 この確固とした自我があるという仮定に基づいている限りその 理想は仮定の上に成り立っているにすぎません。ここに私達の 理屈(理想)と行為の事実が一致しない原因があるように思えます わかっているからやめられるようになるには、自我は仮定され たもの(無我)というところから考え直す必要があるのではないで しょうか。 |