自然に手を合わす心
                     花巻市・円城寺住職 淵沢英隆


 私達が日常おこなってる、手を合わすというありが
たい合掌は、一体どんなことを表しているでしょうか。
また、このことについて考えた方は何人程おるでし
ょうか。十人十色考え方が違うと思うのですが、私
が一番感じることは法愛と感謝という事です。

 寺に生まれ育ち、礼拝と食事のみにしていた合掌
、しかし、本山の修行では、合掌で始まり合掌で終
わるという言葉の如く、朝起きて消燈の時間まで何
回となくする合掌、廊下を往来する時、新到おっさん
(新入生)同士の合掌低頭。新到おっさんと古参お
っさんと
においても合掌低頭、雲水等しく合掌低頭
する。どれ一つとってみても、合掌する方も合掌低
頭の姿をみてる方も、大変気持ちの良いものです。

 ここで、体験した例をのべてみましょう。私が、約
十年間、両親がいないとか、虐待されたとか、ある
いは家庭環境不遇児を収容している児童養護施設
につとめ、五十名の子供達と、寝起きを共にしてき
ました。必ず私は、合掌して食べ始めたのです。す
ると、子供達の間から、「先生どうして、手を合わせ
てから食べるの」と質問がでてきたのです。
 
 そこで、「お米を一生懸命つくっている農家の方に
感謝してるんだよと」と言うと、幼児や低学年の者が
多いので、はっきり理解したかどうかわかりません
が、頷きながらまねをして合掌して食べる子がでて
きました。両親がいないとか、問題行動のある、と
かく暗い性格の子どもさえも、あの小さい手を一生
懸命合わすようになったのです。
 
  その姿が、今でも目に浮かび、忘れることができ
ません。やがて、あの子ども達にも、合掌の意味が
わかる時がくるでしょう。

 またこんな事もありました。街で、ある住職さんと
檀家の方と会い、「これはこれはしばらくです」と言
って、合掌したのです、するとどうでしょう、檀家の
方は、「まだ亡くなっていないのに、縁起でもないで
すよ」と、怒ったような口調で言ってきたのです。

  すると、住職さんは「いやいや仏生き仏というの
があるんですよ」とおっしゃると、檀家の方は、大
変申し訳ない事を言ってしまったと、お詫びをしな
がら帰っていきました。

 今までの二つの例の通りわかるように、一番強く
法愛と感謝が感じられます。合掌を身近なものとし
て考え、決して形式でなく、心の底より真剣に手を
合わす気持でなくてはなりません。形式的な合掌
と心の奥底からの合掌とでは、その姿に差がみ
られるのです。
 
 家庭においては、仏壇に礼拝する事は勿論の事
、せめて、日に三度の食事の時も、修証義三章の
中にある、「合掌し、低頭して口にとなえていわく 
南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧」の如く、
口に三帰依文をとなえて合掌してほしいものです、
そうする事により、明るい円満な家庭が築かれるこ
とでしょう。
 
 ありがたいと思って自然に手を合わす気持が大
切なのです。