南部三閉伊一揆
                     
                仙台藩唐丹村へ越境


 

        あらすじ

  嘉永6年6月
(1853)南部藩の沿岸北部・田
 野畑村で蜂起した押し出し(一揆)は、喜蔵・太
 助・倉治らを頭領として、
六年前の一揆(12月
 の寒中のため失敗)と違い、普代・野田村へと

 一旦北上した。

  白赤だすきそして筵(むしろ)に「小○」(困
るの意味)と書き、のぼり旗として、槍隊・棒隊と隊列を組んで、今度は浜通りを南
下するにつれ大群衆となっていった。 
大槌方面では、三浦命助の率いる一揆軍と合流したその数は、1万5千人とも2万
人とも言われている。
                                              
         


          伊達藩へ雪崩れ込む 

 大群衆 田老・宮古・山田の各村を押し出すにつれ大群衆となり、盛岡より出向いた役人達は、大群衆とその勢いを知り逃げ出 し、大槌代官所の役人達は船で逃げたという。
 
 一方唐丹御番所側では、既にこの動きを察知し、高田代官を通して藩へ報告。 藩境警備を厳重に取り締まる。


 越境の先遣隊は両藩の番所がある石塚峠を通らず、6月5日深夜石塚峠の西側の篠倉山を越えて、いち早く盛岩寺に入り、一揆の指導者達を呼び込んだ。 雪崩の如く唐丹村に越境した一揆の数は8千とも9千人とも言われ、寺や神社、民家と言わず、雨露を凌ぐため船や大樹の下などで野宿したと言う。
写真は篠倉山頂上より釜石小川方面望む             
                   

           難民であふれた村

 この当時の唐丹村の人口は、2、300人前後位である。この事件 の27年後 明治13年(1880)の人口調査では、人口2,289人・ 世帯数435となっている。 越境者は実に村民の4倍であった。

 越境者への炊き出しには
、村内の備荒倉の穀物はじめ気仙郡内の備荒倉より供出
越境してきてから帰国するまで
の約1週間の炊き出し等の奉仕は、実に困難であったことが想像 できる。
            

 炊き出しの記録 

一揆に準備した炊き出しは、その日の夕食から始まった。
 6日 8.565食 夕食のみ    7日 12.439食 朝夕食     8日 8.030食 朝夕食  
 9日 8.030食 朝夕食     10日 8.026食 朝夕食    11日 8.012食 朝夕食  
12日 8.010食 朝夕食     13日 7.964食 朝夕食    14日 7.964食 朝夕食  
15日 7.964食 朝夕食     16日 7.130食 朝夕食    17日 5.994食 朝昼夕食    
18日 5.364食 朝昼夕食   19日   90食 朝夕食
20日〜8月15日(45人×55日) 4.950食 朝夕食 16日(盛へ出発のため朝食 45食)      

  * 賄い合計 108.577食(伊達藩では一賄いにつき2合5勺と定められていた)
  * 玄米(271石4斗4升2合5勺) 豆腐(2.210丁) 
     味噌(1.085貫770匁 一食に10匁) 
     生鰹(1.210本)
  * その外に賄いのための薪や米搗き賃など相当の出費があったはずである   

 一揆の軍資金は相当豊富であったと言われている。浜通りを南 下しながら資産家に軍資金や食料を出させ、出さないと家財家屋 を打ち壊して歩いたという。
  その軍資金や食料につられて、婦女子や乳飲み子まで一揆に 加わったとも言われている。                        

 一説によると、唐丹に越境したとき、相当の軍資金や食料をも持ち込んだと言われている。
 仙台藩の役人の対応が早く、越境したその日の夕食から炊き出しをはじめていて、また帰国者一人に付き米一升と百文づつを支給していることから伺い知れる。
                  
         

           一揆の収束

 盛岩寺で願文をつくる 盛岩寺において三閉伊通り(野田・宮古・大槌の各通り)の幹部45人の寄り合いが開かれ47箇条の願文をつくりあげ、伊達藩へ差し出した。

 伊達藩の仲立ち 伊達藩と南部藩の話し合いは5ヶ月も話し合われ、ようやく三閉伊通りの農漁民の願いが叶ったのであった。6ヶ月間にわたった押し出し一揆は成功の内に終わる。

 この時、江戸の世から明治の世に移る15年前の出来事であった。
 江戸では同時期の6月3日午後5時ペリー提督の率いるアメリカ合衆国の海軍所属の東インド艦隊のサスケハナ号ミシシッピ号の蒸気艦船と帆船プリマス号サラトガ号が江戸湾浦賀(神奈川県横須賀市浦賀)に来航。


参考資料 釜石教育委員会『歴史の道浜街道』・釜石市誌編纂委員会『唐丹小史資料編』日本標準『岩手の歴史物語』刊行委員会編 

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