『地球の微動あらざらんか』
        石に刻んで後世に残した測量の碑
 

         天 蝎             
       
 陸奥州気仙郡唐丹村測量之碑記
 
 曩の歳、伊能勘解由、命を蒙りて諸州を経歴し、北極出地の度数を測量す 越えて享和元年(1801)辛酉秋9月24日、次を以て我郷の測定に及び、三九度十二分と為す。

 蓋し、測量の法古は疎にして今は密なり。慶長の初め、欧邏巴(ヨーロッパ)の商客、新製測器を舶載し、我が方此を補い益精し、測量の法是に於いてか始めし明るし。

 ひそかにおもんみれば天道幽玄、究知すべからずもし、西洋の説に拠らば即ちまたいわゆる地球微動なるもの有らざらんか。こいねがわくは後世の諸彦或いはその異同を知らんことを。         
 
   文化十一年(1814)甲戌秋月
      
                葛西昌丕謹識 
  星座石を当地では『日時計石』と呼
でいた。
円の中の文字は【北極出地三十九度
十二分】と刻まれている。
 
 円の周りには【寶瓶・玄桍・磨羯・星
紀・人馬・析木・天蝎・大火・平秤・壽星
・雙女・鶉尾・獅子・巨蠏・鶉首・陰陽・
寶沈・金牛・大梁・白羊・降婁・雙魚・娵
譖】と十二宮と十二次が交互に配列さ
れている。
 
 この星座石はなにを目途にして刻ま
れたものなのかいまだ不明である。  
 
 ただ言えることは、葛西昌丕が伊能
忠敬の当村測量の12年後に測量碑と
一緒に建立したことは事実なのである。
              葛西昌丕の人物像

 昌丕(まさひろ)は、明和2年(1765)〜天保7年(1836)2月26日歿 72歳
唐丹村に生まれる。長じて仙台城下に遊学。国学と天文暦学を学び、特に天象
を論ずる時には専門名家と雖も一目をおかざるを得なかったという。
 
 また晩年には書を嗜み、当山にその遺墨が残されている。

  葛西家は旧家であり、昌丕は、天保4年(1833)の飢饉に新畑の開発や道路
開削の事業を興して、村民の飢えと貧困を救ったと言われている。

 江戸時代の伊能忠敬の顕彰碑は、この碑のみと言われ、更に地球微動のこと
を後世に託したこの2基の碑は、学術的にも価値あるものと言われているが、残
念ながら原位置から、2〜3度移動している。                     

         伊能忠敬海上引縄測量顕彰碑   

伊能忠敬は江戸幕府の命を受けて、日本全図作製のため17年をかけて
全国を測量して歩き『大日本沿海実測図』を作製したことは有名な話です。

忠敬は奥州海岸測量の途次、享和元年(1801)9月23日唐丹村に到着。
翌24日大石の海岸から船に乗り引き縄を持って真北の対岸の仏ケ崎まで実地
測量をしている。

この時「北緯39度12分」という数値を出している。
唐丹町の五葉山山頂(1.351m)は「北緯39度12分〇九秒」国土地理院調査
忠敬の測量はいかに正確であったかが伺い知ることが出来る。

市民の寄付により、忠敬の引き縄測量200周年の業績を讃え、大石出河岸の
地に測量記念碑を建立。平成13年(2001)10月10日除幕

       
         顕彰碑               出河岸(ここより測量始める)


参考資料・釜石市誌編纂委員会『釜石市誌・唐丹小史資料編』

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